July23,1998 in the limited express 23:37
もう、逃げないと自分に誓いたかった。弱い自分に鞭を打って。懺悔するつもりで。
でも、結局それは肩透かしで終わってしまったんだと思う。数分前―
「私はS.T.A.R.S.ブラヴォーチームのレベッカ・チェンバースです。救助や手当ての必要な人はいますか」私は、持てる限りの力を使い声を出した。
救助にやって来たとは言ったけれど、その声に混じる嗚咽(おえつ)の跡が隠し切れてはいなかった。
必死の呼びかけも虚しく、応答は皆無だった。唯一車内に流れ続けるラジオの声は、この町とは無縁な高速道路の渋滞情報について速報していた。私は、引き攣る脚に喝を入れ歩みを進めた。
ラジオの声の主・・・通路上に落ちていた小型ラジオを拾い上げる。よく見ると、それはプロが好んで用いるような無線機で、非常に巧みな作りをしていた。私は様々なボタンを押し、外部との交信を試みたが、ラジオの声に代わるのは激しいノイズのみで、その試みは失敗に終わった。
ザザ・・・ザザ・・・アぁ・・・ザ・・・あァ・・・
そして、そのノイズに混じり、何者かの悶絶の声が私の耳に入り込んだ。その気配を辿ると、その先・・・誰一人応答が無かったはずの乗客席では、森で遭遇した「屍」と同じ姿に成り果てた男性が、ぐったりとシートに腰を下ろしていた。
既に森で同じ“種”の存在と対峙していたにもかかわらず、再び私は絶句してしまった。すると、いきなりスイッチが入ったかのように、その乗客は水滴の滴る窓に預けていた頭を起こし、虚ろに私を見た。不安定な頭部はそのまま彼の肩まで垂れ落ち、ちょうど顔を傾けたフクロウのような形になった。
全てが私を震え上がらせるためのギミックに見えた・・・。
・・・“お客サン、今日は大サービスだからね!当ゴースト・トレインは全身全霊を注いであなたを恐怖のドン底に突き落として差し上げますよ!”
覆いかぶさるように、ゾンビが私を襲撃した。咄嗟(とっさ)の判断で私は横へ飛び、それを回避する。私を捕らえ損ねたゾンビは、無様に向かい側の客席へと倒れこんだ。
(もう、逃げない・・・!)
私は、覚悟を決めた。・・・果たして、何度この覚悟を躊躇ったことだろうか。でも、もう遅すぎるとは思いたくなかった。今からでもこの悪夢に打ち勝てる、と妄想に近い希望を胸に、そして弾丸に込めた。
連鎖反応のように、変貌した乗客や乗務員たちが起き上がり、瞬く間に私は包囲される。しかし、動きは緩慢である。狙うのは容易い。
肩まで垂れた頭目掛け、サムライ・エッジの1発目を引き絞る。顔が裂け、半分が残る。この一撃で仰け反った隙に、後方へ向けて連続で弾丸を放つ。首へ当たった弾丸が致命傷となり、力尽きたゾンビの群れは通路に身を沈める。
・・・さらに振り向くと、超近距離まで接近したゾンビの、三日月形の顔へ、一撃を見舞った。
緊張の糸がぷっつりと切れ、私はその場にへたり込んでしまった。まだ戦いは始まったばかりだというのに・・・。
「死人が動き出す」という超怪異に満ちた森・・・そこで、私はひとり絶望に隔離されていた。でも、負けてはならない。だから、決心した。
“背後への退路は立たれた以上、前に進むしかない。屍に成り果てた人々は、私が、この手に握り締めたサムライ・エッジで葬り去るしかない”と。
第二話 〜運命の枷〜
July23,1998 in the limited express 23:49
5両目へ繋がる「食堂車」と書かれたドアは、固く閉ざされていた。3両目と4両目は客車となっていて、2両目から先は乗務員用の車両だった。
おそらく、夜間は客車以外の車両間は施錠され、その鍵を車掌が管理しているのだろう、と考えたため、私は「それ」に当たる2両目を訪れたのだった。
そこは、明るく快適な空間を成形していた客車に対し、僅か数個の、しかし合理的に配置された淡い照明によって、安らぎが満たす空間を演出していた。しかし、照明の届かない、闇に覆われた木目の壁の、その苦悶の表情は、逆にその空間の禍々しさを表現していた。
車外からは降りしきる雨の音。車内は、私の喉から溢れ出す呼吸のリズムと、泥にまみれて重くなった靴音に制される。
予備の弾は既に再装填(リロード)されている。私は、今の状況に順応することで
恐怖に抗(あらが)った。
この車両の一番奥には、車掌室があった。私は、中に潜む「住人」に悟られぬよう、ゆっくりとノブを回し、一呼吸置くと、半ば体当たりするように部屋へ飛び込んだ。そして、一心にサムライ・エッジを振りかざす。
銃身の先にあるのは・・・壁にもたれ掛かり動かない屍人形だった。その服装から
彼は、やはりこの部屋の主であることがわかった。・・・いや、「主であった」と言った方が語弊が少ないかもしれない。彼の身体は、既に別の生命体への変態フェイズの、最終段階へ移行していた。
部屋は狭かったので、点けっ放しだった卓上ランプの明かりのみでも十分に探索は
できた。彼の胸ポケットからちら、と覗いていた鍵らしきものは、ランプの穏やかな光と共鳴するかのように、白金色に輝いていた。
息はしていない。私はその輝きに、ゆっくりと、少しずつ手を伸ばした。
そこに気配が感じ取れないことの恐怖感が、私の腕を締め付けた。
1インチ近づく度に押寄せるプレッシャーと死への警告。その狭間で私は息を殺し、唾を噛み締めた。
その時―
カチッ、と金属同士が噛み合う音・・・それは私の背後の、開け放たれた扉の傍から。
それと同時に私を貫く、「生きた」威圧感。
私は緩慢な動きで振り返り、その存在を精一杯の力で睨みつける。
「ビリー・・・コーエン・・・」
私は、眼前の殺人鬼の名を、意識の範疇(はんちゅう)を超えて呟いていた。彼は、通路から差し込む逆光と、部屋内の卓上ランプの照明との境で、怪訝そうな表情を見せた。
「ほう。随分と物知りだな・・・」
私は、私の首筋を捉えた漆黒の銃口よりも、刺々しい彼の眼光に恐怖を覚えた。そして、彼はふと視線を逸らし、
「そうか・・・あんた、S.T.A.R.S.か・・・」
と言った。彼の視線は、私の隊員服の左肩に縫い付けられたS.T.A.R.S.マークのワッペンに留っていた。
しばらくの沈黙が、私と彼を傍観する・・・。
―“ビリー・コーエン少尉26歳。認識番号D−1036。元海兵隊少尉。第一級 殺人罪にて起訴、軍法会議に基づき、レガソン基地へ移送終了後、死刑執行の事・・・。”―
彼についての様々なイメージが私の頭を去来し、去ってゆくイメージは全て真っ白
に染められ、記憶から抹消される。
そんな緊張感が、場を支配していた。
そして、その沈黙を溶かしたのは、彼だった。
「今はあんたらと関わりたくないんでね。失礼させてもらうよ・・・」
銃を降ろしたビリーは、気持ち程度に会釈して、通路へ引き返していった。
「待って!」
いつでもその引き金を絞れる彼に対し、私は何の思慮も無く引き止めてしまった。
「・・・あなたを、逮捕する・・・!」
口をついて出た言葉は、凶悪犯に対してあまりにも無力だった。そして、この怪異の中では、あまりにも場違いだった。
「飾りは、間に合ってる・・・」
ビリーは、左手首から垂れ下がっている手錠を軽く翳し、言った。右手首に掛けられていたはずのもう一方の輪は、強引にねじ切られており、丁度アルファベットの“C”の形をしている。
彼は、躊躇(ためら)いも無く立ち去っていった。無防備な敵意を晒すでもなく、私を撃ち抜くでもなく・・・。
私は、ただ彼に軽くあしらわれたことが腹立たしかった。
・・・ムキになって、私は「彼」のポケットから鍵を掴み取り、その場を後にした。
July24,1998 in the limited express 0:03
忌々しかった。この森が。そして、あのオマワリたちが。
しかし、彼女を含めてもざっと5,6人だろう。まぁ、このぐらいの人数ならやり過ごせる。
俺は、暗闇の4両目を歩いていた。腐ったヤツらに少し構ってやったが、これ以上の無駄弾は作りたくない。
耳障りな雨の音は、俺の苛立ちを歓迎しているようだった。
だが、耳障りなのは雨音だけではない。遠方から耳に突き刺さってくる。
・・・「気配」の音が。
急接近する「気配」は突如、窓ガラスをぐしゃぐしゃに破って車内に突っ込んできた。今では月明かりすらも雨雲に遮られ、「気配」の正体を見破るのは不可能だった。
しかし、通り道だ。接近するしかあるまい。
じりじりと距離を詰め、「気配」の初動を探る。それなりのプレッシャーはあるが、「生身」の人間よりは予測も容易い。
「う・・・うぅ・・・」
低く消え入りそうな呻きが、闇の向こうから発せられた。しかしそれは、そこら中をうろつくイカレた連中のものとは・・・違った。
それは、正しく「人間」の声だった。
俺は闇に突っ込み、そこに横たわる「気配」のもとへ駆け付けた。
そこにいたのは、服も身体もボロボロに切り裂かれた男だった。それも、かなりの巨漢だ。男は僅かな意識を振り絞り、接近した俺の気配を確かめようとしていた。
(そう。俺こそが、あんたらの探していたビリー・コーエンだよ・・・。)
毒づくつもりで小さく呟いた。オマワリの連中に対してではない。自分自身に対してだ。
互いに相容れぬ陰鬱な空間を有する。既に男の意識はまどろみ、サルベージは不可能だった。
その時、激しい雷撃が轟いた。車内の暗闇を一瞬で浄化した閃光は、この巨漢の前に、現在最も警戒すべき凶悪犯―俺の姿を曝け出した。次の瞬間には、空間は再び闇に飲み込まれるが、その一瞬前、俺の正体を見た男の表情は、確かに「絶句」に満たされていた。
「ビリー・・・コーエ・・」
声は途絶えた。この男の生命(いのち)も、恐らく・・・。
何だ・・・?この感情は・・・。胸の奥から激しく湧き上がってくるこの熱は・・・。
憎しみでは・・・無いはずだ・・・。
July24,1998 in the limited express 0:12
3両目に横たわる死体が増えていた。
勿論、そのどれも銃撃を受けて穴だらけになっていた。
しかし、増えていた死体の方はその弾痕が特殊で、全ての弾が胸部または頭部を貫通していた。
―ビリー・コーエン・・・。
確実に標的を打ち抜くその技量の程に、私は戦慄を覚えた。そして、もう死体の山にも「慣れっこ」になった自分が怖かった。でも、それでも触れたくないと思う心は変わらない。私はシートの手すりに捕まりながら屍を飛び越えた。
4両目のドアを開けた。月明かりはなく、開け放たれたドアの形だけ闇が切り取られていた。
・・・彼も、この闇を潜り抜けていったのだろうか。
私は再び、ハンドガンに備え付けられた小型ライトの灯りを頼った。
窓ガラスが割れていた。風や、雨や、雷鳴や・・・・・とにかく、この密閉空間には在り得ない大自然のマテリアルが、その穴から流入していた。
もちろん、その“入り口”を開け放った主も・・・。
一度暗闇に飛び込むと、さっきまでの威勢は脆くも崩れ去り、恐怖への対抗意識が初期化されてしまう。
・・・そして、追い討ちで私を絶望に陥れる巧妙なギミックが、そこに仕掛けられていた。
不恰好に通路に横たわる巨体・・・。その着衣は、任務へ赴く者の武装・・・。
「エっ、エドワードッ!!」
私は喚き声を上げながら、彼の元へ駆けつけた。
彼の身体は無惨に切り裂かれ、無数の傷口から滲み出す紅色の血液が、着衣を黒く変色させていた。
しかし、その哀れな姿に反し、彼の表情は、「何も表現していなかった」。苦悶の喘ぎ半ばで絶命・・・ということもなく、かといって、安堵の中でフェード・アウトされていく意識・・・ということもなく。
彼が絶命するその瞬間、彼が見たもの・・・それは・・・
“・・・ピッピ・・・ピッピ・・・ピッピ・・・”
その時、私の思考を遮る機械音が暗闇に響いた。隊員専用の通信機が、無線通信への応答を要求していたのだ。
私は、スポットライトに照らされた彼に向かって、ぎゅっと目を瞑(つむ)り追悼の意をその場に込めると、そこから心を引き剥がすように振り返り、無線機のスイッチを入れた。
「こちらエンリコ。レベッカ、大丈夫か」
その声はいつも揺るぎが無く、沈着冷静。私は、少なからず彼のその声に安堵を覚えた。
大きな空気の塊を吐き出し、乾き掛けた唾を飲み込んだ後、返事を返した。
「こちらレベッカ。・・・大丈夫です、キャプテン」
努めてポジティブなトーンで声を返そうと思った。けれど・・・背後に眠る記憶が、再び私の心を抉(えぐ)る。
「だけど・・・キャプテン・・え、エドワー・・・」
「エドワードがどうした」
隊長の声が急に鋭くなった。たぶん、このような“豹変”は初めてだと思う。
私が報告せずとも、彼にはその先が分かっていた。無言の私を詮索しないのもおそらく、私に辛辣な報告を再三強要しないための配慮に違いない。
「ビリーか?」
「いいえ、違います・・・。森に住んでいる・・・怪物、です」
かなり言葉に窮したが、この言葉のチョイスがまかり通るこの空間は確かに異常だった。
「今、どこだ・・・」
「位置は・・・特定できません。ただ・・・」
ここでまた、私は言葉に詰まった。頭が狂いそうだった。
「列車の・・・中です。・・・森の外れに、止まっていた」
その言葉を真面目に受け止めたのかどうかは定かではない。でも、怪異たちはその異常を悪戯に緩和してくれた。
「わかった。列車を探す。・・・この事態だ。ビリーが近くにいる可能性もある。注意しろ」
その言葉を聞いたとき、なぜか心臓が口から飛び出そうなほどにドキッとした。
背後から“彼”に撃ち抜かれたみたいに・・・なぜだか・・・。
「・・・レベッカ。よく聞け。新しいことが分かった」
その言葉は大きな含みを持っていた。無線機の向こうでは、隊長と同行している皆が慌しく言葉を交わしている。
「ビリー・コーエンは・・・一度に23人を殺している・・・」
私は十数分前、この森の怪異を越えた脅威と、対峙していた。
July24,1998 in the limited express 0:16
扉のロックを解除し、レベッカは5両目の食堂車に足を踏み入れた。
厨房へ通じるドアは電源が入っておらず、以降の車両へ向かう試みは阻まれた。
その横には2階へ通じる階段があった。
躊躇わず、レベッカは登った。
そこは、いくつものテーブルが並ぶ食堂であった。洗練された空間に並ぶ調度品の数々は、フォーマルな気品を漂わせているが、その多くはかなり荒らされており、火が燻(くすぶ)っているものもある。その危険な魅力の中で、銀のナイフやフォークがギラギラと緋色に輝いていた。
だが、レベッカが見たのものはそれだけではなかった。
常識では量りきれない、超高画質な幻想。レベッカは、炎の揺らめきの中、現実と夢想の狭間を彷徨った・・・。
一番奥の左側のテーブル。そこには、雲の向こうの月を、慈しむように見つめる老人がいた。少し潤むような瞳で空を仰いでいるが、しかしその眼に宿る生気は希薄である。まるで染め上げたかのような“美しい”白髪をオールバックで纏め、本来の意味でのこの場所に相応しい紳士の正装を身に纏う。テーブルクロスの上で両手を組んだそのポーズが、さらなる貫禄を感じさせた。
レベッカは、彼のその面持ちやスタンスに、少なからぬ危機を感じた。しかし、本当に危機であるならば、放っておいても同じはずだ、と彼女は決断した。
「すいません、おじいさん。そこで何をしてらっしゃるんですか・・・?」
彼女は上辺(うわべ)だけの平静を保ちながら老人に問いかけた。
「・・・・・」
老人は尚も空を仰ぐ。沈黙という結果にはもうそろそろ順応しようと思った。だが、やはり正当なレスポンスがなければ彼女は納得できない。
彼はおそらく耳が遠いのだろう、と自分を騙すように決め付け、嫌悪との葛藤を封じ込めた。
「おじいさん?」
レベッカは、老人の肩を軽く揺すり、自分の存在をアピールした。
しかしその時、手に感じた違和感が、彼女の嫌悪感を再び三度(みたび)と奮い立たせる。
「ヒァァッ!!」
彼女は瞬時に手を引き、その手に纏わりつく粘着物質を見る。
それは、あのMPの遺体に付着していたものと同じ粘液だった。
老人の首がゆっくりと動き、レベッカの視線と重なる。やはり、その顔に生気はなかった。
―グキ・・・グキグキ・・
骨だか肉だかが擦れる音が、老人の首から漏れる。よく見ると、彼の頭部だけが、妙にふらつき、バランスを失っている。
レベッカは、グロテスクな危機に備え、そして怯える。
グキッ・・・・・ゴロッ・・
老人の頭部は支柱と断裂し、床へ無様に転がり落ちる。
それだけではない。椅子に腰掛けたままの身体は、切断面が異様なまでに躍動し、そこから生まれる新たな生命体が、粘液を滴らせながら蠢(うごめ)いていた。
「キャーッッ!!」
レベッカは発狂しそうだった。
切断面から真っ二つに身体が裂け、湿った音を立てながら赤のカーペットに倒れこむ。さらにそこから無数の生命体が吹き出し、老人は跡形も無く姿を消した・・・。
そう、最初から老人など存在しなかったのだ。そこにいたのは無数の“鱗”。暗緑色に煌くその巨蟲は、前部が丸く膨れ上がり、尾に向かうに連れ鋭くなる、という奇妙な形を有していた。腹部に位置する巨大な口は、形容する対象を持たなかった。その大陰唇から突き出す牙は、もはや吸血生物としてのカテゴリを逸脱していた。
蟲は恐るべきスピードで飛沫し、部屋の内壁を覆いつくした。無論レベッカの足元にもその暗緑色のカーペットは及び、瞬く間に彼女の身体を這い上がり、覆い尽くす。
身体の自由を失い、苦悶の表情を浮べるレベッカの眼前に、再び老人が姿を現した。それは、床をすり抜けて浮上するかのようだった。
両脚が姿を現し、「構成」が完了すると、老人は、じわりじわりとレベッカへ向かって接近を始める。 無数の鱗を纏ったレベッカは、蟲を振り払おうともがくが、信じ難いほどの怪力で拘束され、身動きが取れない。首筋まで迫ってきた数匹の巨蟲は、そのインモラルな唇を広げ、彼女の精神に吸い付いて離れない。
最早成す術は無かった。レベッカは、この圧倒的なパワーを前に・・・死を覚悟した。
その時、早すぎた人生をレベッカは悔やんだ。才女と呼ばれ、周囲から羨望の眼差しを向けられる人生を。才能が災いしたがゆえの死を。彼女にとって「悲劇のヒロイン」などという言葉は、皮肉な慰みとしか思えなかった。どんなに言葉で着飾ろうと、死んだ記憶は戻ってこない。未熟な彼女の、切実な生への執着も、貫き通さなければ意味が無い・・・。
レベッカは、暗緑色の老人がその腕を振り上げた瞬間、歯を食いしばり、全身に力を込めた。死を覚悟した上での、その運命に抗う矛盾の本能だった。
しかし、次の瞬間・・・老人が振り上げた腕は・・・消失していた。激しいマズルフラッシュと共に。腕を構成していた蟲は砕け散り、結果そこに残ったのは鼻にツンとくる硝煙の匂いだけだった。
さらに怒涛の銃撃が部屋に降り注ぐ。しかしその狙いは流麗且つ的確で、レベッカを苦しめる蟲の鎧のみを打ち抜いた。彼女は苦しみから逃れると共に脱力し、床に倒れこむ。
食堂の入り口では、激しく熱を吹くシグザウエルを構えたビリーが、眦(まなじり)を決した表情でその光景を睨んでいた。
腕を失った老人は、その構成バランスを失い体中をフラフラさせながらも、ビリー目掛け突進した。
しかしビリーは、その彫像の如き老人を見てはいない。彼の両眼が捕捉しているのは、天井に取り付けられた豪華なシャンデリア。その、フィラメントを激しく消耗し、脆弱な点滅を続ける装飾の付け根を、シグザウエルが貫いた。
老人の身体はぐしゃっと音を立てて潰れた。電灯の熱は粘液に着火し、蟲の群れを一斉に焼いた。
本能的危機を抱いたそれらは、瞬く間に身を引き、車両の僅かな隙間から次々と撤退していった。
July24,1998 in the limited express 0:27
レベッカは疲弊の具合を露にし、カーペットの上に横たわったままでいる。息は荒く、鼻腔がしきりにしゅうしゅうと音を立てている。
「大丈夫かい、お嬢さん」
ビリーは嘲笑を含んだ調子で言った。
「・・・お嬢さんって何よ!」
無論、その言葉はレベッカの怒りのスイッチに触れた。彼女は、今までの疲れを忘れたかのようにむくっと起き上がり、目を怒らせてビリーに対抗した。
「私はレベッカ・チェンバース。・・・まぁ、あなたにとってはレベッカ巡査ですけどね!」
左手を腰に当て、右の人差し指でビリーを差しながら、説教するように怒鳴りつける。それは、怒っているようではあるが、傍(はた)から見てとても稚拙だった。
「そうかい・・・」
そう言って、ビリーはレベッカのショートヘアをくしゃっと弄った。完全に子どもをからかう素振りだ。
当然レベッカはその手を拒絶し、明らかな対抗心でビリーを睨んだ。
「それに、私はS.T.A.R.S.なんだから!あなたの助けなんて・・」
その時、彼女は初めて、警察権力というものの中に潜む儚さを思い知った。
・・・彼女は、23人を殺した凶悪犯罪者に助けられたのだ。
レベッカは俯いた。激しい眼差しは折れて崩れ去り、全身に込められた怒りのパワーも、その小さな体の内奥へと引っ込んでいった。
「レベッカ・・・か。俺はあんたの力を借りるつもりだが」
レベッカは目をひん剥いてビリーを見た。驚きの余り、「ひぃ・・」と少し呻いてしまったことが後ろめたかった。
「こんなバケモノだらけの森、1人じゃどうにもならないからな」
「でも・・」
「まだ何か文句があるのか?」
そこでレベッカは黙り込んだ。それに、彼女は反射的に反論しようとしていたが、その続きなど、考えつきもしなかった。
「・・・いいわ。でも、変なコトしたら撃つわよ!」
「ああ、いいさ。それで構わない」
その瞬間、2人の壁が僅かだか薄くなった。
そしてその時レベッカは、意外な助っ人の、左手からぶら下った手錠に、妙に勇気付けられた。
・・・森に響き渡る、骨の髄まで凍りつかせるボーイソプラノの歌声を聞くまでは・・・・・。
「なんだ。この声は・・・?!」
“―あなたがその業火に右手を差し出すのならば、私は最期の宴を、13番目の席で待ちましょう
あなたを天界へ導くその時は、私の子らも共につれてゆきましょう―”
その声の主は、森の彼方―切り立った崖の頂に仁王立ちし、怒号の如き雷雨たちに
よって賞賛されていた。白い民族衣装に身を包み、美しい長髪を輝かし、天界をも見透かす眼光を放つ、「邪悪なる究極」の存在が。
さらに、その男の足元には、巨蟲の群れたちが集っていた。その声の神秘性に惹かれて。その男は、全てが謎に満ちていたが、例えるならば、この言葉が相応しかった。
―「母」という、言葉が。
鋭い雷鳴が森で吼えた。すると同時に、ガクン、と豪華車両が揺れ、動力が復活したことを示す野太い重低音が、車内を駆け巡った。
「う、動いているのか・・・」
再び、「侵略者」は動き始めた。しかし、最早それは魂の抜け殻。
ただ、今の彼が担う役目は、悪夢へと誘う箱舟である。
全ては、この森の支配者によって操られていたのだ・・・。