1998年・・・それは、人々にとって魔の年であったに違いない。
7月24日・・・アメリカ北西部、アークレイ山付近の静かな町―ラクーンシティで発生した「洋館事件」。
10月2日・・・ラクーンシティ全域が放射能により汚染。突然変異した細菌によるバイオハザード(=極めて突発性の高い生物災害)が発生。政府による滅菌作戦により、ラクーンシティは消滅。
12月27日・・・南米の孤島、ロックフォート島崩壊。この島の大部分はアンブレラが軍事訓練所として利用されていたが、国連による調査の結果、銃撃戦の痕跡が発見されたことから、別の非合法組織による襲撃を受けたということが判明した。また、調査結果の中には、隠蔽の痕跡なども謳われており、真相の究明は極めて困難なものであると言われている。
12月28日・・・世界が魔王の到来に畏怖する「予言の年」まであと僅か・・・という時に、あの大災害は起きた。南極で突如爆発が起こり、世界の大地の17%が海へ沈んだ。ニューヨークも、ハワイも・・・東南アジアの島々も・・・。
人々は後に、この事件を「魔王のフライング」と呼ぶようになる。この事実は、永遠に語り継がれるであろう。
・・・これらは全て周知の事実としての「事件」である。しかし、ラクーンシティ崩壊の真相は放射能汚染などではなかった。また、それと時を同じくして世界地図からひそかに姿を消した「第二のラクーンシティ」―シーナ島。この島の消滅の事実もまた、「影」があったのだった。
・・・国際企業アンブレラ。製薬コンツェルンを母体としたこの巨大多国籍企業は1968年に設立し、これまでに様々な形で世界に貢献してきた。伝染病の撲滅、都市の発展、森の再生・・・。「アンブレラが踏んだ大地は都になる」とまで謳われたその資本力は、もはや一国家のそれをも遥かに上回らんとするほどであった。
だが、アンブレラは、「神」であると同時に「死神」でもあったのだ。
・・・軍事用ウイルス「T」。戦場の全てを屍へと変えてしまうその威力を、世界の驕れる支配者たちは見逃そうとしなかった。
しかし、誰がこの「暴君」を生み出したのだろうか・・・。その起源とは・・・。
その真実を解き明かすには、1998年7月23日、つまり「洋館事件」の前日にまで遡らなければならない・・・。
biohazard Ø第一話 〜闇の胎動〜
July 23,1998 Raccoon Forest 20:17
闇を裂き、時が歪む。
森の住人たちは、その未曾有の衝撃に振るえ、張り詰めた空気に絶句する。
森の会話は、その轟音に制される。住人たちは、言葉を失う。
その森に現れた侵略者は、全ての音を飲み込み、走り去る。
運命のレールに足早な車輪を委ね、満月の夜を駆け抜ける。
月明かりに共鳴するマテリアル。・・・「黄道特急(イクプリティック・エクスプレス)」と側面に刻まれた謎の車両が、月下を駆け抜ける。
その荒々しく力強い外観に反し車内では、乗客たちの、ごく普通の会話がなされていた。
「このワイン、高いでしょ・・・?」金髪の女性が、向かい側に座る男に言う。
「大丈夫。これぐらいの贅沢をしても、バチは当たらないさ」陽気に男は返す。
ある者は天井に備え付けられたスピーカーから漏れる、淡いジャズの音色に心を浸しながらメインディッシュに舌鼓(したつづみ)を打ち、ある者はシートに備え付けられたイヤホンでラジオを聴きながら、書類の検討を行う。
その乗客たちは、一般に言われるVIPと、ほぼ変わりない贅沢を享受していた。
その、驕れる使者たちを見据えるひとつの影が、森に立つ。切り立った崖の天辺(てっぺん)で、謎の青年が「黄道特急」の姿を捉える。
身体を包む白い民族衣装・・・美しく流れるように伸びた茶色い長髪・・・澄み切ってはいるが、同時に邪悪な気配をも漂わせる青い瞳・・・。全てが完璧と言っていい程の彼のビジュアルには、正しく「荘厳」という言葉が相応しい。
その青年は、夜空を仰ぎ、歌う。
“―あなたがその業火に右手を差し出すのならば、私は最期の宴を、13番目の席で待ちましょう
あなたを天界へ導くその時は、私の子らも共につれてゆきましょう―”
やがて車両は、深い漆黒のトンネルへと吸い込まれていく。
微かに聞こえたボーイソプラノの歌声が途切れた時、やっと乗客はその声が外界から届いたものだということに気付いた。
そして、それと同時に聞こえた、天井の怪音。それは、車両の外装に「何か」が張り付いたような音だった。
ペチャ・・・ペチャ・・・と、徐々にその「音」は数を増していく。
果たして、「黄道特急」は再びその姿を現した。だが、その外観は、無数の鱗に覆われた邪龍へと突然変異(メタモルフォーゼ)を遂げていた。そして、邪龍を形作る無数の「鱗」は、一斉に車内への侵攻を開始する。
招かれざる客たちは、血に餓えた毒牙に身を抉られ、喉が裂けるほどの絶叫を上げる。贅沢な空間は一変して、肉を失い悶える地獄絵図へと化したのだった。
再び、豪華車両がボーイソプラノの独唱に晒される。その歌はかくして鎮魂歌のよ うでもあった。
完全に支配された車両は、力を失い、侵略の脚を止める。・・・いや、もう「侵略 者」の魂は失せたのだ。
人知を超えた、魔の刃によって、喉笛を掻き切られていたのだ・・・。
July23,1998 Raccoon Forest 22:23
2時間後。
ラクーン市警所属の特殊部隊“S.T.A.R.S.”のブラヴォーチームを乗せたヘリが、ラクーンフォレスト上空を飛行していた。
本来S.T.A.R.S.は、都市化に伴うテロ行為や、多様化する犯罪に対処する為に設立された精鋭部隊であったが、数ヶ月前から多発する「人を生きたまま食い殺す」という、前代未聞の猟奇殺人事件の調査のため、彼らによる、ラクーンフォレストの広域捜査投入が決定したのだった。
いささか性急な出動命令ではあったが、出動までに膨大な時間を費やしたため、飛び立った彼らは、天高く聳え立つ満月に迎えられることとなってしまった。
「なぁ・・・お前はこの事件をどう思う?」
S.T.A.R.S.最年長であるケネス・サリバンが、隣のフォレストに尋ねる。
「俺は・・・クリスと同じ意見。悪魔宗教の絡み・・・その線だな」
フォレスト・スパイヤーは重火器の扱いを得意とするオムニマンである。会話中であっても、彼の視線は彼の管理する重火器用ボックスから離れなようとしない。手入れに余念が無いのが、彼の性格である。
その会話の横でも、同じく二人が会話をしている。
「どうだい調子は?・・・あまり緊張するな・・・って、ムリか・・・」
ブラヴォーチームの援護役、リチャード・エイケンが話しかける。
「・・・ありがとうリチャード。やっぱり、顔に出ちゃってる?」
その相手はブラヴォーチームの紅一点、新人隊員のレベッカ・チェンバースであった。彼女は去年、18歳にして大学を卒業した才女であり、その秀でた化学知識を買われ、S.T.A.R.S.への入隊が決まったのだった。リチャードは、S.T.A.R.S.メンバー中最もレベッカと年齢が近かったため、彼女のサポート役に選ばれたのである。
「初出動だってのにエライことになっちまったけど、大丈夫。俺らを信じろ」
胸をぽん、と叩いてみせるリチャードを見て、レベッカの表情は少し和らいだ。
だが・・・もうすでに彼らは、悪夢へ通ずるドアをノックしていたのだった。
ズドン、と凄まじい爆発音が起こると、警告ランプが機内を赤く照らし、非常ベルが唸りを上げた。その衝撃に一同は呆気に取られ、茫然とするしかなかった。
「何が起こった!」
如何なる自体であっても冷静な隊長エンリコ・マリーニが、ベルの轟音に打ち勝つが如く叫ぶ。
「エンジントラブル発生!隊長、緊急着陸を試みます!」
副操縦士として搭乗していたエドワード・デューイが隊長へ事態を報告すると、彼は
すぐさまレバーを引き上げ、高度を保とうと尽力する。ラクーン警察署専属の操縦士ケビン・マグワイヤも、持てる技術を総動員し軌道修正を試みる。
機体は大きくうねり、回転しながら森の中へと吸い込まれていく。
無限に続く、邪気の巣窟へと・・・。
July23,1998 Raccoon Forest 22:49
不時着したヘリのドアがスライドし、隊員が次々と飛び出してくる。その洗練された動きは、彼らの行動力が、如何なる緊急事態であっても揺るがないことを体現していた。
最後に飛び出したレベッカは、一度振り向き、機内での待機を命ぜられているケビンへ向け、グッっと親指を突き出した。
ケビンもまた、同じジェスチャーでレベッカに返す。
メンバーがラクーンフォレストへ降り立ち、それぞれの警戒態勢で事態に臨む。
「現在位置の確認を急げ」エンリコは隊員に行動を促した。
ポイントマンのケネスが、率先して小型ライトの照明を翳すと、その先―闇を削られた森の一画に、人工物らしきものが姿を現した。
「た、隊長、あれは・・・?!」
エンリコが先頭に出る。
光がその人工物の上を這い、徐々にその正体を明らかものへと変えていく。そして、それは横転したMP車の残骸であることが分かった。
光がその残骸の下を照らし出した時、一同は「そこに在るもの」の意味を、一瞬見失った。
それは人であった。しかし、今となってはもうその役割を果たさない、追憶を抱えた人形であった。口の周囲の肉は裂け、眼球は沈降し、身体は烏が生ゴミを突付いた跡のように傷ついていた。
「それ」が「それ」であり、「そこ」に在るということを理解した時、最上級の恐怖感と生理的嫌悪が、レベッカの絶叫を促した。他の隊員たちもその惨憺たる光景に絶句するが、己の意思に鞭を打ち、捜索に乗り出す。
「MP・・・囚人護送車か・・・」
鼻腔に不快な湿り気を残す腐敗臭に耐えながら、エンリコは死体の周囲を調べる。すると彼は、その死体の身体に、謎の粘液がこびり付いているのを発見した。
「レベッカ、来い」
拭い去れない嫌悪感と葛藤しつつも、レベッカは隊長の命令に従う。彼女も死体の近くで姿勢を低くする。
「これは何か、分かるか・・・?」人差し指で暗緑色の粘液を掬い上げ、訝(いぶか)る。
「いいえ・・・でも、極めて浸透圧の高い液体・・・この森に住む生物が分泌したものだとは・・・」
レベッカも思考を巡らす。その最中、彼女は大破した車体の影に埋もれるファイルを発見した。
「これは・・・」
やはりその下に寝そべる屍に触れることはできず、レベッカは恐る恐る手を伸ばし、ファイルを取り出す。
バインダーに取り付けられていたファイルには、このMP車が護送していた囚人のデータが記載されていた。
「ビリー・コーエン少尉26歳。・・・認識番号D−1036・・・」
レベッカがデータを読み始める。他の隊員も、その事態を察知してレベッカのもとに集合する。
「元海兵隊少尉。第一級殺人罪にて起訴、軍法会議に基づき、レガソン基地へ移送終了後・・・死刑執行の事?!」
レベッカがファイルの内容を読み終えると同時に、エドワードがそのファイルを取り上げた。
「MPを殺害し、そのままトンズラかい・・・。とにかく、まだこの森にいる可能性は高い。こいつを泳がせておく訳には行かないだろう」
「ともかく。これより森の探索を、フォーメーションA−2にて行う。意義のある者はいるか」
エンリコが命令を下す。それに対し一同は、沈黙を以って肯定を表した。
「相手は凶悪犯だ。油断するな」
漆黒の森は気配によって支配されている。無数の気配が視線を尖らせ、侵入者ども
の身体を貫く。
言い知れぬ緊張の中、レベッカは、手にしたS.T.A.R.S.の制式装備であるハンドガン―サムライ・エッジを握り締め、銃身に取り付けられた小型ライトの明かりに縋(すが)る。
その木々の向こうには何が。何が潜んでいるのか。レベッカは幼い頃に終わっていたはずの、ありふれた怪談話への安易な恐怖を蒸し返してしまっていた。
―この森のどこかに、“人喰い”が潜んでいる―
その恐怖に慄き震える弱い自分を押し殺し、レベッカは己が魂を、前方に据えるハンドガンに込めた。
レベッカは右も左も分からぬ暗黒を進む。一日中陽の射すことの無い湿った大地を、一歩一歩踏みしめることで、幻想へ引きずり込まれそうな自分を現実に縛り付ける。
・・・闇夜に響く烏の悲鳴。レベッカは、咄嗟に銃口をその“気配”の方へと向ける。ライトの光に照らされた烏の群れは、恐れを為して四方へと散っていく。
レベッカ自身、“人喰い”など馬鹿馬鹿しいことはわかっていた。今の自分を支配している警戒心が、後になってお笑い種になることなど、とっくに承知していた。だが、「今」が怖くて仕方が無かった。この瞬間に屈してしまうと、もう二度と現世へは戻れなくなる、という恐怖心と幻覚に飲み込まれていた。
そして、その恐怖の旋律がサブリミナルの如くレベッカの脳を刺激する・・・
―ガシ・・・ギャシ・・・ギャシ・・・
今だ嘗て無いリアルな想像。
“ハラワタを鋭い歯で抉られ、天目掛けて苦悶の表情を浮かべる男”。そして“満
たされぬ飢えを拭わんと人肉を貪る食人鬼”。
しかし、レベッカの鼓膜を刺激するその残虐なサウンドエフェクトは、次第に乾いた響きへと変わった。 いや、それは本来枯渇しきった響きであり、彼女の脳内に宿る“人喰い”の固定観念が、よりグロテスクな咀嚼(そしゃく)音として認識させたのかもしれない。
そして、その耳障りな響きと、眼前の人影が重なった。
木々を掻い潜って差し込む逆光を背に、深緑に潜むクリーチャーがそこにはいた。
身に着けた衣服はボロボロに刻まれており、その裂け目から除く皮膚は激しく爛(ただ)れ、腐り、剥がれ落ち、頭髪は完全に抜け落ちていた。全てに飢えを呈したその存在は、もはやその欲求を満たす手段にすら理性を伴うことを忘れ、森を形成する欅の一本に喰らい付いていたのだった。
「ハァッ・・・!!」
レベッカは戦慄し、声にならない呻き声を上げる。“生ける屍”は、ガリガリと樹皮を削り取っていた欅を対象から外し、生きた肉―レベッカを求めて歩み寄り始めた。当座その表情に生気は宿っておらず、樹皮の欠片の突き刺さる頬にも、「痛み」は通っていない。
それは、この世界において、「ゾンビ」と呼ぶ存在なのであろう。別次元の物語であっても、我々がそれを形容するために用いることの出来る、最も卑近な存在、それが「ゾンビ」であるはずなのだ。
レベッカは無秩序に接近するゾンビに対抗するための平常心を失い、ただただ後退りする。その距離が縮まるにつれ、レベッカの鼻腔に入り込む死臭はより濃いものとなっていく。それは、日常の中で慣れすぎた「人間臭さ」の何万倍もの濃度であり、糞尿から漂う悪臭のそれを遥かに凌ぐ不快感と嫌悪感であった。
生肉の粒子が鼻腔に入り込んでくるような、究極の生理的恐怖と嫌悪。震える手でサムライ・エッジを前方に構えると、ライトに照らされた形相が闇に映え、よりグロテスクに映った。焦りに打ち勝とうとレベッカは頭部に向け発砲するが、震える銃身は対象が定まらず、虚しく対象の左耳を砕くだけであった。無論、そのことに“彼”が痛みを感じることは無い。
接近を続ける対象と常に一定の距離を保つため、そして迫り来る恐怖から逃れるため、レベッカは後退を続けた。相手が緩慢な動きしか為し得ないことは十分に理解しているが、今のレベッカにとって、その相手に背を向けることこそが、死ぬこと以上の恐怖であったのだ。
任務遂行の妨げにならぬよう極限まで運動性に特化させた特注のスポーズシューズが、ペースト状の泥を削り取っていく。そして、次第に重みを増していく踵が、地面から突起した小さな岩に当たった時、レベッカの身体は大きく傾き、臀部からべシャッと倒れこんだ。
迫り来るゾンビの影が、彼女に覆い被さる。彼女が闇を仰ぐと、そこにあったゾンビの表情は、最早人類からも遠く懸け離れた、「未来の表情」であった。我々人間が、もし破滅の進化を遂げた時、“彼ら”はきっとこのような表情をするのであろう。
レベッカは恐怖に顔も身体も引き攣り、文字通り「影縛り」に掛かってしまっていた。
「ぁぁあァぁァ・・・」
遂にゾンビの魔手が、レベッカに掛かろうとしていた。既に抵抗する精神力を失っていたレベッカは、金属を擦らせたような金切り声を上げる。
その時、遠くからバスンという爆発音が轟き、レベッカの頭上で肉の裂ける豪快な音が響いた。滑稽ではあるが、それは炭酸飲料の入ったボトルを勢い良く開けた時のような、そういう音だった。
「レベッカ!逃げろ!」彼女の後方から叫び声がした。リチャードである。彼は彼女を助けるため、彼が愛用するアサルトショットガンを引っ提げて駆け付けたのだ。
「レベッカ!走るんだ!」
小さな無数の鉄球を詰めた12番ショットシェルを喰らってもなお、ゾンビは怯まない。焦りを隠し切れず、泥の上でシューズをなんども滑らせながらレベッカは走り出した。
「他のメンバーと合流するんだ!いいな!」リチャードは逃げ出すレベッカに指示を出すが、彼自身も、今の彼女がその言葉を認識できるとは考えられなかった。
レベッカは暗緑色の森を一心に駆け抜ける。奇跡的にまだ握り締めていたサムライ・エッジが、森を乱暴に照らす。夜行性の小動物たちはその光にざわめき、森は激しく怒り狂う。
何時しか雨も降り始め、疾走する彼女の身体は泥と雨でびしょびしょに汚れていた。
そして、彼女が森の終端へ辿り着くと、そこにある異様な「もの」の姿に絶句した。
・・・列車である。
なぜこのような森の辺境に、舗装された線路があるのか?そして、なぜ駅すら見当たらない道程の中途に、場違いとも言うべき豪華な車両が停止しているのか?
しかし、今の彼女にはやはり、そのような思慮を行うことは不可能であった。
手動でドアを抉じ開け、列車に乗り込むと、レベッカはその場にへたり込む。
そして彼女は、月明かりの差し込む車内で戦いの始まりを噛み締めた。